市民ランナー教員の『一歩一歩』

市民ランナー教員の『一歩一歩』

長距離をひた走る小学校教員のロードを振り返る

揃えること

揃えること。
そして揃えることで説明できるということ。

「なぜ、こうなっているんですか?」
「学校で揃って決まっているんですよ。」

これは果たして、説明になっているのだろうか。

「なぜ、揃えるのですか?」

この問いには回答が思い浮かぶ。

「揃えることが子どもの安心感につながります。」

果たして、本当にそうなのだろうか。

揃えることが窮屈さや学びにくさにつながっている。

そうなっている場合、揃えることを説明の理由にはしにくい。

国語の単元の題材を揃える必要があるのだろうか。
欠席で、条件が揃っていない子だっているのに。

書き方や形式を揃える必要があるのだろうか。
それならば、せめて1週間前には言ってくれ。
単元に入ってから、急に言われても合わせられない。



世の中は今、多様性の時代とも言われている。
多様性と自分勝手のはき違えもある。
個性には、ある一定のベースが必要ということもある。

しかし、説明ができるからという理由で揃えること。それは違うのではと思うのである。

今は戦う場面じゃない。戦えば勝てる論理はあるが、きっと正義にはなり得ない。ここは引っ込めて、その先の旨味を目指したほうが得だ。双方、もしくは三方向にとって。

思考停止にはなりたくない。つくづく思った出来事だった。

MGCから考えたこと

日曜日のMGC。今まで見たレースの中では一番、タフで凄まじいレースだった。

設楽の大逃げも、中村の2段階スパートも、大迫が見せた我武者羅も、どれも永久保存版だ。

 

ここで気になっていることがある。

それは「勝負強さ」である。

 

今回の中村の走りは、レース巧者が見せるような勝負所を抑えた、「王者」走りだったように思う。大学時代から1区のスペシャリストとして、今回のようなロングスパートで他大学を幾度となく苦しめていた。しかし、彼はマラソンでの優勝経験はなかった。

 

2位に入った服部勇馬。耐えに耐え、粘りに粘った末の勝利ともいえる。彼には、福岡国際マラソンでの優勝経験があった。

 

4強の一角と目された、井上。彼の前評判は非常に高かった。10キロ過ぎ、帽子を脱ぎ捨てた場面。きっと何かがうまくいかずに、イライラが募っていたように見えた。しかし、彼にはアジア大会での優勝経験があった。

 

設楽悠太。序盤からの大逃げ。あの積極性や自分のスタイルの貫き方は高く評価されていい。彼にはゴールドコーストラソンでの優勝経験があった。

 

そして大迫傑。大本命と言われ、周囲からのプレッシャーも期待も飛びぬけていた。しかし、優勝経験がなかった。

 

いわゆる、「勝った」経験の有無。その有無だけで勝負が語られることは理不尽だろう。

勝った経験にこだわりすぎて負けることもある。

勝った経験を貫いて勝つこともある。

勝ちパターンがあれば、それは強いだろうし、安心できる。

 

ただ、マラソンも教室も、相手がいて、環境や状況、プロセスが日々変わる。天気もバイオリズムも、テンションも空気も、日々変わる。

 

その変化に気づき、視点を変えて解決策や対応策を考えること。傍観者でなく、当事者としてその変化に対して「やる」人が勝負強いのではないか。

 

教室に優勝はないかもしれない。ただ、「対応できた」・「解決できた」という小さな成功体験が自律神経の安定を生む。

 

小さな成功体験の繰り返しが、体の中の制御システムを自分のコントロール下におくことになる。そして、生理的な力が安定していく。

 

ラソンも、教室も、そんな小さな成功体験の繰り返しだと思う。

 

その繰り返しを結果が出るまで、続けることなのだと思う。

伴走者でありたい

2泊3日の体験学習が終わった。

3年間持ち上がりの学年。

今回は、帰りのバスが何だか寂しかった。「あぁ・・・終わっちゃうなぁ・・・」って。

こういうのは2回目だなぁ。どこかできっと終わりを感じているんだろうなぁ。

 

内容も良かった。ほぼ、大人からの指示はなし。自分たちで動けるし、ミスも修正ができていた。変更にも落ち着いて対応していたし、何より戦場ヶ原での雰囲気が良かった。あの日、みんなで見た湯滝はきっと思い出になっただろうなぁ。

 

3年間、語弊を招く言い方で言えば、「育ててきた」つもり。ある意味での集大成が今回だったから、こういった姿が見ることができて嬉しかった。

 

もちろん課題も。この辺はやっぱり自分が変わらなきゃいけないところ。

もっと「伴走者」でありたいと思う。そのためにも「安定ある余裕」と「個人面談」。

引っ張る必要もあれば、背中を押す必要もある。一緒に走る必要もあれば、給水するだけでもいいこともある。運営管理車からの指示だって必要な選手もいれば、いらない選手だっている。ベストの状態でスタートラインに立たせること。いかなるレース展開でも対応していけるように。

 

 

 

それじゃなにも変わらない

ここ最近、ブログの更新が滞っていた。

子どもが登校し始めると、やはり時間に余裕がなくなってくる。というか、家に帰るとサボりたくなって、何もしていないのが本音なのだけど。

 

職員室での教員同士の会話。

どうしても子どものことをリスペクトしていないように感じることがあった。

 

周囲とのトラブルが尽きない子がいる。

以前に指導しても何も変わらない。そういう子だから。

 

教室というもはや「試合」が行われる場所から離れれば、子どもや保護者への否定的な言葉が出るのは、仕方のないことだとも感じる。

 

僕はそのような会話に入らないことにしている。そう思うよなぁ・・・とも感じるのだけど、大概はこちらにコントロール可能なポイントもあるからだ。

 

僕たちはプロなのだ。プロは結果を残さなくちゃいけない。

僕たちはプロなのだ。結果を残すのであれば、誰かの責任にしていては何も変わらない。

僕たちはプロなのだ。日々学び、日々変化成長を繰り返す。

 

その覚悟がなければ、子どもは伸びないし、変わらない。

覚悟がないから、言葉に魂が宿らない。

一生懸命とか努力とかそういうことではない。プロはそのレベルで語らない。

覚悟が必要なのだ。

生産する仕事

明日から、子どもが登校してくる。

今日は出勤日。会議も詰まっているが、自分の中では完全に「リズムづくり」である。

目の前の会議や打ち合わせをこなしていくよりかは、ある程度、先を見据えて先取りを繰り返したい。

 

与えられた会議のスケジュールをこなす。目の前のことをこなしているだけでは、仕事は進まない。

自分で工夫し、考えて仕事の段取りをつくっていく。

 

ここに生産者と消費者の違いがあらわれていく。

働き方改革が進まない大きな原因に、仕事の仕方が「消費的」であることを感じている。

消費者は不満を言う。誰かのせいにする。受け身だからこそ、目の前のことしかこなせない。

仕事をするということは、何かを「生産する」ことだと考えている。

 

生産すること。

イデア、時間、工夫。

それらの試行錯誤が自らを高めていく。

仕方なくない

休職、退職。
担任が途中で変わる。
担任が不在のクラスがある。
代替で初任が来る。

不思議じゃない。これからの時代、頻繁に起きる。

でも、普通じゃない。仕方なくない。

療休は仕方ないのか?そこに危機感はないのか?

昨日まで机を並べ、仕事をした同僚が休職する。

でもそこを想うこともないまま、仕事をする。

もしかしたら、周りも思うことがあるのかもしれない。でも何も変わってない。気づけば、この数年、同じことが続いている。

仕方ないんじゃない。変わらなきゃいけないのは、自分たちだ。

この時期の準備が

この時期、夏休み中に12月までの授業準備をあらかた終わらせる。

もちろん、変更前提で。

 

どの単元がどれくらいの時数なのか。

必要なプリントを作成する。印刷も。

指導事項は何か。

 

余裕がある時期なので、単元同士はもちろん、他教科や他学年との関連も見えてくる。

 

準備しておけば、日々に余裕ができる。見通しをもつことができる。

子どもに「見通しをもたせる」ためには何よりも、教師自身が「見通しをもっているか」が重要だ。

 

そして、準備よりも「振り返り」に時間を使うことができる。

 

「準備→実践→振り返り」

 

これによって経験ではなく「キャリア」として積み重ねることができると思う。

準備すれば、再現性も高まる。改善点も具体性が増す。

大事なのは経験年数じゃない。「キャリア年数」であり、「最新学習歴」だと思う。

 

準備は例えるなら「脚づくり」だ。

12月までの長いレースに耐えうる、脚をつくらなきゃ。

長い距離を走ることのできる脚があることで、余裕をもったレース運びができる。

余裕のある教師は強い。