揃えること
揃えること。
そして揃えることで説明できるということ。
「なぜ、こうなっているんですか?」
「学校で揃って決まっているんですよ。」
これは果たして、説明になっているのだろうか。
「なぜ、揃えるのですか?」
この問いには回答が思い浮かぶ。
「揃えることが子どもの安心感につながります。」
果たして、本当にそうなのだろうか。
揃えることが窮屈さや学びにくさにつながっている。
そうなっている場合、揃えることを説明の理由にはしにくい。
国語の単元の題材を揃える必要があるのだろうか。
欠席で、条件が揃っていない子だっているのに。
書き方や形式を揃える必要があるのだろうか。
それならば、せめて1週間前には言ってくれ。
単元に入ってから、急に言われても合わせられない。
世の中は今、多様性の時代とも言われている。
多様性と自分勝手のはき違えもある。
個性には、ある一定のベースが必要ということもある。
しかし、説明ができるからという理由で揃えること。それは違うのではと思うのである。
今は戦う場面じゃない。戦えば勝てる論理はあるが、きっと正義にはなり得ない。ここは引っ込めて、その先の旨味を目指したほうが得だ。双方、もしくは三方向にとって。
思考停止にはなりたくない。つくづく思った出来事だった。