偉そうに感じる
「学校の手を煩わさせない」
「全員を参加させる」
この3日間、この2つの言葉が気になっている。
何だか偉そうに感じてしまう。
でも当の本人はそんなことを微塵も感じていないのではないか。
子どもがいるから、先生としていることができる。
先生のために子どもがいるわけではない。
地域があるから学校がある。
学校のために地域があるわけではない。
子どもが先生の話を聞くのは当たり前ではない。
地域の人が学校に来てくれることは当たり前ではない。
子どもが学校に来ることが当たり前ではない時代になってきた。
個別化が進み、つながりが薄くなる時代になってきた。
もっと謙虚にならなきゃいけないのだと思う。
もっと当たり前に感謝していかなければならないのだと思う。
許すということ
夏休みに入り、閉庁期間前にやらかした。
自分のミスで何人かを巻き込んでしまい、そのことが休み期間、ずっと引っ掛かっていた。
今日はお詫び周り。直接謝るのはドキドキする。
許してもらう。気持ちがすっと楽になる。
許すというのは優しさの象徴的行為なのかもしれない。
「人が何かをやり直すことができるのは過去の過ちを許してくれる人がいて初めて可能になる」
この「許す」という行為、現代ではどんどん「許されない」ものになってはいないだろうか。
間違いを認めず、徹底的に叩く。正義という名のもとに。ネットでも、世間の声でもその論調は強い。
お互いがお互いを監視している。何か叩くことはないか。火に油を注ぐ場合もあれば、線香花火ぐらいの火力に大量の油を注ぐ場合もある。
学校でもそうなってはいないだろうか。
ルールを破れば、すぐさま叱責がとぶ。失敗を責める。「できない」に冷たい。そんな空気を感じる時がある。
もちろん、世の中でも学校でも「許せない」ことはある。ただもう少し、寛容になってもいいのではないか。そう思う。
そして、そんな世の中で自分は許された。一生懸命、やり直さなきゃ。
夏休みの終わりに
明日から出勤。
夏休みの勤務は好きではない。職員室でずっと仕事をすることが苦手なのだ。
夏休みが終わることは好きではない。のんびりしていたいからだ。
ただ、今年は子どもが教室にいることを少し待ち望んでいるところがある。
自分自身が元気をもらっているんだろうな。そんな子たちに出会えて本当に恵まれていると思う。
でも、慢心はしない。
長期休み明けに必ず読むもので、あの時のことを心に刻む。
勝手に自分で十字架を背負う。
今の自分が「たまたま」よい状態でいることを確認する。
そのことで不安になる。夜、寝付けなくなることもある。
自分にとって仕事は「憂鬱な」ものなのかもしれない。
だから自信満々な人を見ると心配になる。
自分が楽しむことをまず考えている人を見ると心配になる。
自分にそれはできない。でもその中で一歩ずつ、足を踏み出すことで何かが変わることを自分は知っている。
これからトライすること
小学校教員は比較的長期の休みがこの時期はある。
今年は3週間ほど。妻の仕事があったため、ほとんどを娘と息子と過ごした。
後半は子どもたちの病気もあり、ほとんどを家で過ごした。
年をとるたびに、夏の終わりに過敏になっているところがある。
寂しいのだ。自分が年を重ねていることを感じるのだ。
「あぁ、また一つ、年をとったな」と。
今年の夏休みは、読書も仕事もトレーニングも中途半端でさらにそう感じている。
夏休み明けから、これから、やりたいこと、変えたいことを書き出してみた。
①ブログ
・・・これはスタート。あとはどう日常に組み込むかだなぁ。
②年間スケジュール
・・・レースと仕事の繁忙期のバランスを見て立案。
③週スケジュール
・・・朝のジョグ日と仕事日をバランスよく。飲み会を減らしたいんだよなぁ。その時間を近所の銭湯での回復に充てたい。
④一日スケジュール
・・・睡眠時間をベースに考えてみた。
⑤時間の記録
・・・一日スケジュールを考えるために、勤務時間と一つの仕事にかかった時間を記録していく必要があるなぁと。
⑥読書記録
・・・家族の時間を大切にすること、身近な仲間との勉強会を優先的に考えると民間セミナーは少なめに。そうすると、日々の実践の振り返りと同時に読書を日常的に進め記録していく必要があるかなぁと。
⑦景色のよいドライブルート
・・・これは単純にこれから増やしていきたい。九州のやまなみハイウェイに行けたことがきっかけ。銚子ドーバーラインもよかったなぁ。こういうところを目的に行って、駐車場に停めてそのルートをランニングできないかな。帰りに温泉入ったりして。
①~⑦は繋がっているのよね。一つを頑張るよりかは、全部をゆったりと進めていけば
いいかな。
スタート
今日からブログを始める。
いつも刺激をもらっている後輩が始め、それに影響されたから。
なんとなく、軽い気持ちで。
一日一日、一歩一歩。
「僕はこの冬に世界のどこかでまたフル・マラソンレースを一つ走ることになるだろう。そして来年の夏にはまたどこかでトライアスロン・レースに挑んでいることになるだろう。そのようにして季節が廻り、年が移っていく。
僕は一つ年を取り、おそらくは小説をひとつ書き上げていく。とにかく目の前にある課題を手に取り、力を尽くしてそれらをひとつひとつこなしていく。一歩一歩のストライドに意識を集中する。
しかしそうしながら同時に、なるべく長いレンジでものを考え、なるべく遠くの風景を見るように心がける。なんといっても僕は長距離ランナーなのだ。個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまで副次的なことでしかない。
僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした。耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な―どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な―教訓を学び取っていくことである。
そして時間をかけ歳月をかえ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ。」
『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹